Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

映:名探偵コナン ①前口上

1. はじめに

名探偵コナン』は小学館の「週刊少年サンデー」で1994年から連載されている青山剛昌原作の推理漫画である。

このシリーズは1996年に始まったテレビアニメが現在まで続いており、1997年からは毎年アニメーション映画が公開、2006年にはドラマ化しており、単行本は現在95巻まで出ている。

長く広く、愛されている作品である。

 

私は通常、漫画は古本屋で立ち読みするスタイルでありこのシリーズも例に漏れずそうであるが、アニメは毎週欠かさず拝聴し映画もドラマも網羅する程度にファンである。

今回はその『名探偵コナン』の映画全22作品を独自の視点で評価し、ランキングにするという長期企画である。

評価の詳細はランキング発表後、作品毎に行うこととする。

 

 

2. 名探偵コナン 基本知識

まず、『名探偵コナン』シリーズの基本的な内容を説明する。

 

大人顔負けの洞察力と推理力で世間に名を馳せた高校生探偵の工藤新一。

彼は幼馴染で同級生の毛利蘭と遊園地に遊びに行くが、そこで黒ずくめの男たちの怪しげな取引を目撃する。

取引を見るのに夢中になっていた彼は男の仲間に背後から殴られ、口封じのために毒薬を飲まされる。

しかし、男たちも知らない薬の副作用で神経を除く全ての組織が退行し、新一は体が縮んでしまった。

隣人の阿笠博士(はかせ)は、工藤新一が生きていると組織の人間に知られたら再び命を狙われ、周囲の人間にも被害が及ぶと考えた。

助言をもらい正体を隠すことにした新一は、大好きな推理小説家から名前を取り「江戸川コナン」と名乗り、蘭の父・毛利小五郎の家に居候することとなる。

小五郎が探偵であることから、謎の組織の情報が得られると考えたのだ。

本シリーズは、コナンが周囲で起きる事件を持ち前の推理力と阿笠博士の発明品を駆使して解決していくと同時に、黒の組織の正体を暴いて元の身体を取り戻そうとする物語である。

 

 

3. 劇場版名探偵コナン

次に、劇場版名探偵コナンの基本情報である。

 

名探偵コナンの劇場版作品は1997年から毎年4月に公開しておりゴールデンウィークの時期に重なるようになっている。

2018年現在で映画は22作品あり、コラボ作品を含めると全23作品となる。

制作年順に並べると以下のようになる。

(コラボ以外の作品のタイトルは漢字を類義のカタカナ語で読むことがよくある為、その場合は直後の括弧内に漢字の読みを記す。)

 

(1) 時計じかけの摩天楼 1997年

(2) 14番目の標的(ターゲット) 1998年

(3) 世紀末の魔術師 1999年

(4) 瞳の中の暗殺者 2000年

(5) 天国へのカウントダウン 2001年

(6) ベイカー街(ストリート)の亡霊 2002年

(7) 迷宮の十字路(クロスロード) 2003年

(8) 銀翼の奇術師(マジシャン) 2004年

(9) 水平線上の陰謀(ストラテジー) 2005年

(10) 探偵たちの鎮魂歌(レクイエム) 2006年

(11) 紺碧の棺(ジョリー・ロジャー) 2007年

(12) 戦慄の楽譜(フルスコア) 2008年

(13) 漆黒の追跡者(チェイサー) 2009年

(14) 天空の難破船(ロストシップ) 2010年

(15) 沈黙の15分(クォーター) 2011年

(16) 11人目のストライカー 2012年

(17) 絶海の探偵(プライベート・アイ) 2013年

(コラボ) ルパン三世 VS 名探偵コナン THE MOVIE 2013年

(18) 異次元の狙撃手(スナイパー) 2014年

(19) 業火の向日葵 2015年

(20) 純黒の悪夢(ナイトメア) 2016年

(21) から紅の恋歌(ラブレター) 2017年

(22) ゼロの執行人 2018年

 

続く2019年には『紺青の拳(フィスト)』が公開される。

配給は東宝

シリーズ最高興行収入は2018年公開の『ゼロの執行人』で91億円である。

ここ数年はずっと興行収入が右肩上がりであるが、それは認知度、キャラクター人気、ゲスト声優人気、同一作品を1人が複数回観るという文化など様々な要因があり、個々の作品の評価に直結させてはいけない。

また、ルパン三世とのコラボ作品もあるが、今回は純粋なコナン作品のみをコナン作品として評価する。

 

4. 評価方法

前章でも述べた通り、興行収入は高いほど良質な作品とは限らないことから評価項目からは除外する。

また、他作品とのコラボは『名探偵コナン』としての評価基準が当てはまらない可能性があるため割愛する。

青山剛昌による漫画『まじっく快斗』の主人公である怪盗キッドが登場するものに関しては、『名探偵コナン』の原作にも登場することがあるため他作品とのコラボとはみなさない。

 

具体的には以下の5項目を5段階で評価し、さらに重要度の高いとみなしたものに重み(ウェイト)を設定する。最終的には50点満点になる計算である。


・推理の面白さ、結末の意外性:3倍
・事件の迫力、壮大さ:2倍
・サブストーリーの面白さ:1倍
・登場人物:1倍
・喜怒哀楽:3倍

 

○5段階の価値観

1:まぁ普通
3:割といい
5:素晴らしい

 

ミステリーとして「推理の面白さ、結末の意外性」を、映画として感情の振り幅を表す「喜怒哀楽」を重視し、それぞれの評価点を3倍にする。

飽きがこない、印象に残るという意味で「事件の迫力、壮大さ」の評価点を2倍にする。

「サブストーリーの面白さ」や「登場人物」はスパイスとしては魅力的だが、全体に占める割合が少ないため評価点は1倍とする。

 

 

次回、実際にランキング形式で得点を発表する。

 

「檸檬」アナザーストーリー

前回記事にした、梶井基次郎の『檸檬』の感想は課題で書いたものである。実はあれは改訂版で、最初は少し違うものを書いていた。それをそのまま提出しようと考えていたが、見直してすぐに自信がなくなった。

私はよく的外れな文章を書いてしまうのである。出題の意図も何も考えず思った通りに書き、そして後で直すことになるのがお決まりであった。

しかしまあ頑張って書いたので、ここに載せて何とか我が文章を供養したい。

 

どんな感想文を書いたかというと、それは感想文ではなくアナザーストーリーだと父親に言われるような、論理そっちのけな文章である。

 

一応、閲覧注意‼️

 

 

 

 

 

 

梶井基次郎檸檬」アナザーストーリー

〜求められていない物語〜

                                                 by Purple Fabric

 

煙のようなものが見えた。喫煙所の前を通るように顔をしかめる準備をしていたら、然し柑橘系のすっきりとした香りが漂ってきた。檸檬だ。私は唐揚げに付いてくるレモンをそのまま口に放り込むほどレモンが好きだった。

檸檬の靄に包まれて、私はただただこの物語の主人公と一体化した。物語は私の記憶となる。

 

得体の知れない不安が常に心を支配して、華やかなものは豪華絢爛、目が眩んでしまう。憂鬱さに俯きながら歩くと、ありきたりな果物店の、ある水菓子が目にとまる。檸檬だ。「私」を幸福にするそれを一つ買って握りしめると、もう一人の私が姿を現す。

黄金色の冷たい檸檬は姿を変え、母の手となる。幼い私の熱を帯びた額を溶かすそれは、妙に安心感を与えた。その手の冷たい温もりがある限り私は得体の知れない不安を取り除くことができる気がした。再び眠りにつくとそれはまた紡錘形の水菓子に戻った。

 

―――つまりはこの重さなんだな―――

哲学じみた洒落を言えるほどには回復したのだろう。そう思っていた。

どこへでも行ける気がして、羽の生えた靴で歩を進めてたどり着いたのは、かつてはお気に入りであった重苦しい場所。低気圧よりも「私」を悩ますこの重さは、あの美しい檸檬でさえ取り替えることはできなかった。それどころか「私」の意思とは関係なく、さらに重たい画本を次々と取り出して、ついには頂上を檸檬で飾った城が出来てしまった。

「私」はそそくさと店を出る。美しい檸檬爆弾を置いてきた背徳感に胸を踊らせながら。この偽物の背徳感もまた私を呼び起こす。私はスパイ映画の主人公になりきって街を歩くことがあるのだ。誰に迷惑をかけるわけでもない。むしろ迷惑をかける勇気などないのだが。

偽物の罪悪感に胸をときめかせ、「一般人になりきるスパイ」になりきって一人楽しむのだ。決して悲しいことではない。ただもしかしたら、これはあの檸檬の仕業かもしれない。

とどのつまり「私」は、梶井基次郎は、私の心にも檸檬爆弾を一つ置いていったのだ。

 

 

 

本:檸檬

タイトル:檸檬

作者:梶井基次郎

 

【あらすじ】

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「えたいの知れない不吉な塊」が「私」の心を始終圧えつけていた。それは肺尖カタルや神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考える。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる「私」には重苦しい場所に変化していた。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、「私」は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。

ふと、前から気に入っていた寺町通果物屋の前で「私」は足を止め、美しく積まれた果物や野菜を眺めた。珍しく「私」の好きなレモンが並べてあった。「私」はレモンを一つ買った。始終「私」の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるみ、「私」は街の上で非常に幸福であった。

「私」は久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。「私」はレモンを思い出し、そこに置いてみた。「私」にまた先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきた。

見わたすと、そのレモンイエローはガチャガチャした本の色の階調をひっそりと紡錘形の中へ吸収してしまい、カーンと冴えかえっていた。「私」はそれをそのままにして、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくアイデアを思いついた。レモンを爆弾に見立てた「私」は、すたすたと店から出て、木っ端微塵に大爆発する丸善を愉快に想像しながら、京極(新京極通)を下っていった。

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引用(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/檸檬_(小説) )

青空文庫・全文閲覧可能(https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

 

 

【感想】

一本の映画を見たような充実感、行き場に困った感情の錯乱、自分と重なる部分への共感。短編小説であるにもかかわらず、途轍もなく尾を引く作品に私は出会った。檸檬だ。詩的な表現と緻密な檸檬の描写に五感を刺激され、目の前には例の黄金色の爆弾が置かれている。それほどの力を感じるのだ。なにがさて私を感動させるのだ。

それは主人公の感じていた「えたいの知れない不吉な塊」を私も知っているからだ。そしてそれを振り払うように小さなことに幸福を見出そうとするところ、大きな事件を起こすこともできず頭で想像するだけで満足してしまうところもまた、主人公と私は似ているのだ。

 

例えばそれは、檸檬の冷たさに主人公が快感を覚えるところだ。風邪で寝込んでいる私の熱を帯びた額を、よく母の手が溶かしてくれた。その冷たい温もりは私に妙な安心感を与え、小さな出来事だが、幸福を感じた。そして今でもよく覚えている。

また、爆弾を仕掛けたという妄想によって主人公が背徳感を覚え、胸を躍らすところも似ている。私はスパイ映画の主人公になりきって街を歩くことがある。この行為自体は誰に迷惑をかける訳でもない。むしろ迷惑をかける勇気などないのだが。偽物の罪悪感に胸をときめかせ、一般人の振りをしているスパイになりきり、一人楽しむのだ。決して悲しいことではない。心を支配する憂鬱など、こんな簡単なことで紛れてしまう靄のようなものなのだから。

 

もしかしたら私の心にも檸檬爆弾があるのかもしれない。いや、私だけではなく、万人の心に仕掛けられているのかもしれない。それは時に憂鬱や不安を取り除き、あるいは私たちを奇妙な行動へと導くものだ。然し、その浮き沈みこそが人間そのものであり、主人公、もとい、梶井基次郎という鬼才も同じくそうであることの証明でもあると私は思う。私たちは、人間である以上この厄介な代物とうまく付き合う必要があるということだ。私はそれに挑みたい。そしてどうせなら、与えられた爆弾を抱きしめてジェットコースターに乗れるくらいの度胸も身につけたいものだ。

 

 

 

本:セロ弾きのゴーシュ

タイトル:セロ弾きのゴーシュ

作者:宮沢賢治

 

【あらすじ】

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ゴーシュは町の活動写真館の楽団「金星音楽団」でセロ(チェロ)を弾く係。楽団では近く町の音楽会で演奏予定の『第六交響曲』の練習を続けていたが、あまりにも下手なためにいつも楽長に厳しく叱責されていた。そんなゴーシュのもとに、カッコウを始め様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏を依頼する。そうした経験を経た後の音楽会本番で「第六交響曲」の演奏は成功し、司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名した。ゴーシュは馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しつつ、「印度の虎狩り」という曲を夢中で演奏する。その演奏は楽長を初めとする他の楽団員から賞賛を受けることになった。

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引用(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/セロ弾きのゴーシュ

青空文庫・全文閲覧可能(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/470_15407.html

 

 

【感想】

扨、何を語ろうか。ひと通り読み終わって、「種は蒔いたのだから何か出てくるはずだ」と待っているが、なかなか芽が出ないのである。

自分の感情を新鮮なうちに言の葉にしようと、読んでいる途中でメモを取っていた。いかんせんまとまりそうにはないが、勿体無いので紹介したい。

 

近代文学現代文学との間には、付かず離れずの不思議な距離感があると思う。チェロのことをセロと書いたり、楽器の音色をごうごうと表現したり、くゎくこうと書いたりかくこうと書いたり——しかもそのあとにはちゃんと"かっこう"と書けているのである——しているのを見ると少し違和感を覚えるのだが、しかしこれと言って分からない言葉がある訳でもない。」

ここまで書いて、自分の中ですべて完結していることに気が付いた。どうも私はこの不思議な文章を柔軟に受け入れることが出来てしまったようだ。私はメモ帳を一枚くしゃくしゃに丸めた。

 

「音楽会へ向けて練習をしているゴーシュと他の楽手たち。このシーンを読んでいて二つの正反対な映画が頭に浮かんだ。一つは『セッション』というジャズオーケストラの映画で、もう一つは『フォレスト・ガンプ』というヒューマンドラマ映画で、どちらも非常に有名な作品だ。

まず『セッション』では、主人公が映画の中で酷い罵声を浴びせられながらドラムを叩き、自主練習のときも両手が朱殷に染まるほどには叩き続ける。それが、楽長に怒鳴られるゴーシュと僅かに重なったのだ。

次に『フォレスト・ガンプ』では、主人公は相対的に見ると、知能指数が低く変わり者で、子どもの頃スクールバスで学校に行くとき誰も隣に座らせてくれなかったのだ。その様子が、ゴーシュが注意されている時周りの人が見て見ぬ振りをしている描写と、これまた僅かに重なる。また、最終的に多くの人から賞賛されるという点ではすべての作品が共通している。

しかし、こうして並べたのは私が初めてではないか、そう思ってしまうくらい両者はかけ離れている話だと繰り返し述べておこう。」

私はまたメモ帳を一枚切り離し、今度はシュレッダーにかけた。そして、最後の一枚に手を掛ける。

 

「動物たちはたとえ自分が嫌われても、ゴーシュに大切なことを教えてくれた。ゴーシュは、猫からは激しい感情表現を、かっこうからは基礎的な音程を、狸からはリズムを、そしてねずみたちからは自信を、知らず識らず与えられていたのだ。動物が何かを教えてくれるようなファンタジー作品や未熟な主人公が成長する教養小説ビルドゥングスロマン)のような作品は数多く存在するが、ゴーシュのように人間臭い主人公は滅多にいない。率直に言うと私は彼のような自惚れ屋で暴力的で他人——ここでは動物だが——の優しさに後で気付くばかりの人間は好きではないが、それでも人間味があると思えば嫌いでもない。また最後の一文から、彼は今後、冷静に自分の演奏を省みて反省したり周りへの感謝をしたりできる人になるのではないかと期待している。」

最後の一枚を書き終えたところで風が吹き、この紙はどこかへ飛んで行ってしまった。誰かに拾われて読まれていないといいのだが。

 

 

 

詩:朝のリレー

タイトル:朝のリレー

作者:谷川俊太郎

 

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 カムチャッカの若者が
 きりんの夢を見ているとき
 メキシコの娘は
 朝もやの中でバスを待っている
 ニューヨークの少女が
 ほほえみながら寝がえりをうつとき
 ローマの少年は
 柱頭を染める朝陽にウインクする
 この地球で
 いつもどこかで朝がはじまっている

 ぼくらは朝をリレーするのだ
 経度から経度へと
 そうしていわば交換で地球を守る
 眠る前のひととき耳をすますと
 どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
 それはあなたの送った朝を
 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

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引用(https://urushi-art.net/hitokoto/backfile/best/asanorirei.html

 

 

【感想】

憂鬱な朝である。

私たちが過ごすそれというのは。

私は眠りにつく前に、自分に訪れる次の朝のことを考える。ちゃんと目を覚ますことができるだろうか、そして時間通りにあの列車に乗り、学び舎までたどり着くだろうか、と。そんなことを考えて不安になっていると、眠るだけの夜に遣る瀬無い思いが押し寄せてくる。手放すのが惜しい温もりに包まれながら、そこから追い出される明日を恐れているのだ。こんな毎日が永遠に続いてしまいそうで、私は闇夜を照らす朝という光が実に憎々しいのである。

 

彼はどうだったろうか、谷川俊太郎は。彼は自らに降りかかる次の朝より既に訪れている誰かの朝を見ていた。そしてこちらでは夜の帳が下りているというのに、「グッモーニン!」と見えない誰かに挨拶しているようだ。これは実際に彼が言っていた訳ではなく、彼の作品「朝のリレー」を読んで私が考えたことなのだが。

 

なるほど、眠りにつくとき、誰かの朝を感じられたら幸せかもしれない。人跡未踏の明日より、誰かの今日をお下がりでもらった方が安心かもしれない。そのうちやって来る朝は誰かの温もりを残したお古なんだから、布団から出ることを恐れる必要はない。この優しい詩を読んで、私の恐れる明日とはまやかしだったと気付いた。

 

人は時折、詩に救いを求めることがある。恋をしているとき、答えを見つけられないとき、生きるのが辛いとき。大きなことでも、小さなことでも、彼らは全部優しく抱きしめてくれる。彼はこの詩がここまで人の心を癒すとは思っていなかったかもしれない。しかし、そもそも芸術作品は作者の手を離れてもなお生き続け、受け手の中でまた姿を変える。完成した形などないのだ。だから、優しいのだ。

 

 

 

詩:けがした指

タイトル:けがした指

作者:金子みすゞ

 

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白い繃帶(はうたい) してゐたら、
見てもいたうて、

泣きました。

 

あねさまの帶(おび)借りて、

紅い鹿の子でむすんだら

指はかはいいお人形。

 

爪にお顔を描いてたら、

いつか、痛いのわすれてた。

>>

引用(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/5778/poem3-2.htm

 

 

【感想】

授業で金子みすゞの詩をいくつか読んだあと、最も心に残ったのがこの作品だ。

小さな女の子が白い包帯の付いた指を見つめて、そのうちに雑巾を絞るように顔を歪め泣き出してしまう、そんな姿が鮮明に浮かぶのは幼い頃の自分に少なからず似ているからだろう。

私には姉がいて、その姉もまた、「あねさま」と重なってしまう。

ついさっきまで泣いていた。確かに泣いていたのに、今は目の前にいる姉と笑っている。そしてその笑いが治まった頃、涙の跡に風があたりヒヤリとした感覚と共に思い出す。「ああ、そういえば泣いてたんだっけ。」この魔法をかけられたような経験を、心地よいリズムで鋭く言い当てられたのがとても嬉しかった。

この歳になると、幼い頃の思い出は切なさが勝り、純粋に楽しい気分にはなれないのだが、不思議なことにこの詩は、私のそんな錯綜した感情さえも受け入れてくれるのだ。

自分の人生の一ページを、映画のワンシーンのように優しく描写してくれた作者に感謝したい。

 

 

映:少女ムシェット

監督:ロベール・ブレッソン

制作国:フランス

 

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あらすじ

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病床の母親とろくに働かないアル中でDV体質の父親を持つ14歳のムシェットは、学校でも極貧であるという理由で無視され、友達のまったく居ない生活を送っていた。ある日の学校の帰り道、森へ迷い込み、密猟の男に出会う。その男はてんかんの発作と幻覚症状を抱えていた。密猟の男に犯され、母親は死に、父親に暴力を振るわれ、森番の妻に怒鳴られ、どこへ行っても誰にも味方もされず、不幸のどん底にいるムシェットには居場所がなかった。

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たった14歳の少女が「うんざりだわ。」と言えてしまうような世界。

変わらない表情に誰も気付かない。だが確かに彼女は泣いていた。酒浸りで暴力的な父と病気で寝たきりの母。唯一心を許した密猟者のアルセーヌさえ、彼女を傷付けることしか知らない。

涙だけが流れる中、初めて嗚咽を漏らした瞬間も彼女は孤独だった。

だから報われないラストシーンが妙にしっくりきてしまう。

この作品は、以前ここで紹介した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも影響を与えたという。


俳優たちが素人というのも良い。

誇張した表現が無い限りなく無に近いリアルな表情で、残酷な人生の真理を訴えかけてくる。

モノクロの世界はもしかしたら、少女ムシェットが見ている世界そのものなのかもしれない。

 

参考動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=j9HXcsE0gI8