Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

映:桐島、部活やめるってよ

監督:吉田大八

原作:朝井リョウ

制作国:日本

 

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あらすじ

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ありふれた時間が校舎に流れる「金曜日」の放課後。一つだけ昨日までと違ったのは、学校内の誰もが認める"スター"桐島の退部のニュースが校内を駆け巡ったこと。彼女さえも連絡がとれずその理由を知らされぬまま、退部に大きな影響を受けるバレーボール部の部員たちはもちろんのこと、桐島と同様に学校内ヒエラルキーの"上"に属する生徒たち、そして直接的には桐島と関係のない"下"に属する生徒まで、あらゆる部活、クラスの人間関係が静かに変化していく。

校内の人間関係に緊張感が張りつめる中、桐島に一番遠い存在だった"下"に属する映画部前田が動きだし、物語は思わぬ方向へ展開していく。

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学校を舞台に様々な人間が物語をつくるグランドホテル方式。


朝井リョウのデビュー小説。

原作は登場人物毎に章立てされたオムニバス形式だ。

それを映画では曜日毎に章立てし、複数の視点から同じ時間を何度も描く。

所謂学校内ヒエラルキーの"上"に属する女子生徒たちの言う陰口が"下"に属する生徒に聞こえていたことが直後の章で分かった瞬間、ヒヤッとする人もいれば静かに頷く人もいるだろう。

 

台詞も演技もリアリティーを追求したものであった。

私は放課後直帰型帰宅部だったので残念ながら共感はできないが、こういう人たちを傍観していたのを思い出した。

女子生徒たちの、力が抜け語尾が伸びる話し方や、コロコロ変わる声のトーン。或いは自信なさげに一定のトーンを保つ話し方。

男子生徒たちの退屈そうな表情。或いは動揺した目の動きとオドオドした話し方。

ある女子生徒は、自分の彼氏に好意を持つ子の前で彼氏とキスする。自分の物だと言わんばかりに。

さまざまな高校生が描かれるがどれも納得のいく人間像である。


桐島が部活をやめただけで周りはひどく動揺し、そしてこれでもかと振り回される。

たかが部活。だけどそれが狭い世界にいる生徒たちには分かりやすいアイデンティティなんだ。

桐島がどうして部活をやめたのかは分からない。

こんなにも周囲に影響を与えた桐島は一度も登場せず、ついにその胸の内は明かされないのだ。

気まぐれか、周囲の反応を面白がっているか、もしかしてその小さな世界から抜け出したかったのか。

部活をやめた桐島に興味がなくなったら人は離れていくかもしれないし、もしそうなったら桐島は耐えられないだろう。

彼らは小さなことですぐ揺れ動くけど、肝心なところは何も変わらない。変われない。

イエスマン」でいることを求められ、そうでなければ弾かれる。

そして弾かれたものもまた、「イエスマン」を蔑み距離を置く。

"いま"の高校生の置かれた状況を飽くまで客観的に丁寧に描いた映画だったが、私はついそんなことを考えてしまった。

 

原作も映画も最後は映画部の前田と"上"に属する宏樹が二人きりになる。

しかし映画ではそこに至るまでに原作にはないシーンが加えられた。皆が屋上に集まるシーンである。

物語の終盤、とある火曜日。校内にはずっと休んでいた桐島が学校に来ているというニュースが流れる。

それぞれが別の場所から桐島を求め屋上に押しかける。そこでは映画部がゾンビ映画の撮影をしていた。

桐島の不在に苛立つ"上"の生徒たち。撮影の邪魔をされ、無関係ながら振り回された前田はついにキレる。

そこからの屋上はカオスである。生徒たちがゾンビに襲われる仮構の世界を前田のカメラが写すのだ。その映像がなかなか面白い。

錯綜した彼らの思いが、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような雑多で威勢のいい革命感があった。

映画ならではの演出だ。

(↓ドラクロワ民衆を導く自由の女神』)

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騒ぎが収まって二人きりになった前田と宏樹。

初めて交わしたわずかな会話は、驚くほど穏やかで、嵐の後の空気のように清冽で澄んでいた。

 

予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=KjjG0WTQ6C4