Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

本:檸檬

タイトル:檸檬

作者:梶井基次郎

 

【あらすじ】

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「えたいの知れない不吉な塊」が「私」の心を始終圧えつけていた。それは肺尖カタルや神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考える。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる「私」には重苦しい場所に変化していた。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、「私」は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。

ふと、前から気に入っていた寺町通果物屋の前で「私」は足を止め、美しく積まれた果物や野菜を眺めた。珍しく「私」の好きなレモンが並べてあった。「私」はレモンを一つ買った。始終「私」の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるみ、「私」は街の上で非常に幸福であった。

「私」は久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。「私」はレモンを思い出し、そこに置いてみた。「私」にまた先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきた。

見わたすと、そのレモンイエローはガチャガチャした本の色の階調をひっそりと紡錘形の中へ吸収してしまい、カーンと冴えかえっていた。「私」はそれをそのままにして、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくアイデアを思いついた。レモンを爆弾に見立てた「私」は、すたすたと店から出て、木っ端微塵に大爆発する丸善を愉快に想像しながら、京極(新京極通)を下っていった。

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引用(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/檸檬_(小説) )

青空文庫・全文閲覧可能(https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

 

 

【感想】

一本の映画を見たような充実感、行き場に困った感情の錯乱、自分と重なる部分への共感。短編小説であるにもかかわらず、途轍もなく尾を引く作品に私は出会った。檸檬だ。詩的な表現と緻密な檸檬の描写に五感を刺激され、目の前には例の黄金色の爆弾が置かれている。それほどの力を感じるのだ。なにがさて私を感動させるのだ。

それは主人公の感じていた「えたいの知れない不吉な塊」を私も知っているからだ。そしてそれを振り払うように小さなことに幸福を見出そうとするところ、大きな事件を起こすこともできず頭で想像するだけで満足してしまうところもまた、主人公と私は似ているのだ。

 

例えばそれは、檸檬の冷たさに主人公が快感を覚えるところだ。風邪で寝込んでいる私の熱を帯びた額を、よく母の手が溶かしてくれた。その冷たい温もりは私に妙な安心感を与え、小さな出来事だが、幸福を感じた。そして今でもよく覚えている。

また、爆弾を仕掛けたという妄想によって主人公が背徳感を覚え、胸を躍らすところも似ている。私はスパイ映画の主人公になりきって街を歩くことがある。この行為自体は誰に迷惑をかける訳でもない。むしろ迷惑をかける勇気などないのだが。偽物の罪悪感に胸をときめかせ、一般人の振りをしているスパイになりきり、一人楽しむのだ。決して悲しいことではない。心を支配する憂鬱など、こんな簡単なことで紛れてしまう靄のようなものなのだから。

 

もしかしたら私の心にも檸檬爆弾があるのかもしれない。いや、私だけではなく、万人の心に仕掛けられているのかもしれない。それは時に憂鬱や不安を取り除き、あるいは私たちを奇妙な行動へと導くものだ。然し、その浮き沈みこそが人間そのものであり、主人公、もとい、梶井基次郎という鬼才も同じくそうであることの証明でもあると私は思う。私たちは、人間である以上この厄介な代物とうまく付き合う必要があるということだ。私はそれに挑みたい。そしてどうせなら、与えられた爆弾を抱きしめてジェットコースターに乗れるくらいの度胸も身につけたいものだ。