Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

映:時計じかけのオレンジ

監督:スタンリー・キューブリック

制作国:イギリス

 

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何を話しても伝わる気がしないほど狂った映画。
最低最悪と言っても過言ではない。

しかしそこがまた最高なので、人間の嗜好というのは不思議なものだ。

何が最高かって、こんなに心を動かされることも滅多にないからだ。

 

暴力もレイプも厭わない、殺人的な狂気で満ちた主人公アレックス。

彼はまだ15歳だが、仲間とつるんで犯罪にふけっていた。

 

時折彼が口ずさむ音楽「雨に唄えば ("Singin' in the rain")」はまさに不協和音。その一切が調和しない。「雨に唄えば」オリジナルのイメージを持ってしても拭えない狂気が宿っていた。そして彼らが好んで使うナッドサット言葉はロシア語を基にした新しい若者言葉だという。最初は戸惑うが、慣れるとカッコよく聞こえてしまうのだ。

 

あるとき彼らは殺人事件を起こしてしまう。

グループのリーダーを巡って争った後だったため、アレックスは仲間に裏切られ警察に捕まってしまう。

懲役14年の実刑判決を受け、2年ほど過ごした彼は模範囚となっていた。

そこで、とある提案をされる。

それは、刑期を短くするのと引き換えに「ルドヴィコ療法」の被験者になるというものだった。

アレックスはその治療法をよく知らないまま、条件を飲む。

治療のため施設に送られた彼は薬を投与され、椅子に拘束され、瞼を閉じないようにクリップで留められた状態で、ひたすら残虐な映像を見せられる。

「ルドヴィコ療法」は、薬による吐き気や嫌悪感と暴力的映像を結びつけることで被験者が暴力や性行為に生理的拒絶反応を起こすようにし、犯罪を防ぐものだった。

 

ほとんど自業自得の状況ではあるが、発狂するアレックスの哀れな姿にまさに生理的拒絶反応を起こす者もいるだろう。映像のBGMは、偶然にもアレックスが愛して止まなかったベートーヴェンの第九だったので、この音楽もまた吐き気や嫌悪感と結びつけられてしまったのだ。

 

出所前に治療の成果を政府関係者等の前で披露し、アレックスは見事に暴力表現や性描写を拒絶するようになっていた。

効果を証明できたことに喜ぶ関係者たち。

 

しかしそれは恐怖故の判断で、決して更生した訳ではない。「時計じかけのオレンジ」というのはロンドン東部の労働者階級が使っていたスラングで「何を考えているか分からない変人」という意味なのだという。しかしマレーシア語でオランが人間という意味なことからもう一つ「時計じかけの人間」という説もある。このときのアレックスはまさに「時計じかけのオレンジ」のような「中身が機械」の状態だった。

 

無事出所するアレックスだが家には居場所がなく、以前リンチしたホームレスに追いかけ回され暴力をふるわれ、警官となったかつての仲間にも暴力をふるわれる。

行き場を失った彼は、そうとは知らずに以前押し入った作家の家に助けを求める。

作家はアレックスらの暴行で車椅子生活、夫人はアレックスらから強姦された後肺炎で亡くなった。

マスクで顔を隠していたためアレックスが犯人とは気づかず、「ルドヴィコ療法の犠牲者」として彼を利用し政権にダメージを与えようと考える作家。

しかし入浴中に口ずさんだ「雨に唄えば」で、アレックスが自分たちを襲った少年だと気づく。

一気に復讐心が沸き起こり、作家はアレックス本人から「第九を聴くと死にたくなる」という弱みを聞き出す。

そして薬で眠らせたアレックスを監禁し、第九を大音量で聞かせる。

苦痛に耐えられなくなったアレックスは死ぬつもりで窓から飛び降りる。

それも作家の計画の一つだったが、しかし彼は死ななかった。

目を覚ますとアレックスは包帯姿で病院にいた。

彼は精神科医のテストを受けるが、暴力行為や性行為への抵抗は無くなっていた。

アレックスの自殺未遂で評判が下がった内務大臣は、治療が成功した振りをして欲しいとお願いし、アレックスは承諾する。

すると2台の大きなスピーカーと大勢のカメラマンが入ってきて、握手する2人の写真を撮る。

スピーカーからは第九が大音量で流れ、アレックスは性的な映像を想像し、陶然と酔いしれる。

アレックスはまた以前の姿に戻ったのだ。

 

アレックスの状況に関しては因果応報、当然だとも思えるが、自分を守ることすら出来ない姿を見ると何が善で何が悪か、分からなくなりそうだ。自由放任主義全体主義のジレンマを描いた風刺的作品とされているが、考えようによっては犯罪者の人権はどれくらいあるのかということもテーマとして上がってくる。

 

私は純粋に、芸術としてこの映画を好きだ。「雨に唄えば」をこんな使い方して許されるのも、この映画だけだと思っている(勿論、批判する人もいるだろう)。

芸術としては見れないとしてもそれは仕方のないことだ。人にはそれぞれ美学がある。そしてそういう人は社会派映画として見れば少しは落ち着くかもしれない。しかしまあ、いずれにせよ、子どもや"純な心"を持った大人は見ない方がいいが。


とにかく"哀れで惨めでクレイジー"な男の"哀れで惨めでクレイジー"な暴力とセックスでぐちゃぐちゃにな人生を観たい人にはお勧めする。

 

参考動画↓(一応、閲覧注意‼️)

https://m.youtube.com/watch?v=XyUkMtAOxKY