Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

映:時計じかけのオレンジ

監督:スタンリー・キューブリック

制作国:イギリス

 

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何を話しても伝わる気がしないほど狂った映画。
最低最悪と言っても過言ではない。

しかしそこがまた最高なので、人間の嗜好というのは不思議なものだ。

何が最高かって、こんなに心を動かされることも滅多にないからだ。

 

暴力もレイプも厭わない、殺人的な狂気で満ちた主人公アレックス。

彼はまだ15歳だが、仲間とつるんで犯罪にふけっていた。

 

時折彼が口ずさむ音楽「雨に唄えば ("Singin' in the rain")」はまさに不協和音。その一切が調和しない。「雨に唄えば」オリジナルのイメージを持ってしても拭えない狂気が宿っていた。そして彼らが好んで使うナッドサット言葉はロシア語を基にした新しい若者言葉だという。最初は戸惑うが、慣れるとカッコよく聞こえてしまうのだ。

 

あるとき彼らは殺人事件を起こしてしまう。

グループのリーダーを巡って争った後だったため、アレックスは仲間に裏切られ警察に捕まってしまう。

懲役14年の実刑判決を受け、2年ほど過ごした彼は模範囚となっていた。

そこで、とある提案をされる。

それは、刑期を短くするのと引き換えに「ルドヴィコ療法」の被験者になるというものだった。

アレックスはその治療法をよく知らないまま、条件を飲む。

治療のため施設に送られた彼は薬を投与され、椅子に拘束され、瞼を閉じないようにクリップで留められた状態で、ひたすら残虐な映像を見せられる。

「ルドヴィコ療法」は、薬による吐き気や嫌悪感と暴力的映像を結びつけることで被験者が暴力や性行為に生理的拒絶反応を起こすようにし、犯罪を防ぐものだった。

 

ほとんど自業自得の状況ではあるが、発狂するアレックスの哀れな姿にまさに生理的拒絶反応を起こす者もいるだろう。映像のBGMは、偶然にもアレックスが愛して止まなかったベートーヴェンの第九だったので、この音楽もまた吐き気や嫌悪感と結びつけられてしまったのだ。

 

出所前に治療の成果を政府関係者等の前で披露し、アレックスは見事に暴力表現や性描写を拒絶するようになっていた。

効果を証明できたことに喜ぶ関係者たち。

 

しかしそれは恐怖故の判断で、決して更生した訳ではない。「時計じかけのオレンジ」というのはロンドン東部の労働者階級が使っていたスラングで「何を考えているか分からない変人」という意味なのだという。しかしマレーシア語でオランが人間という意味なことからもう一つ「時計じかけの人間」という説もある。このときのアレックスはまさに「時計じかけのオレンジ」のような「中身が機械」の状態だった。

 

無事出所するアレックスだが家には居場所がなく、以前リンチしたホームレスに追いかけ回され暴力をふるわれ、警官となったかつての仲間にも暴力をふるわれる。

行き場を失った彼は、そうとは知らずに以前押し入った作家の家に助けを求める。

作家はアレックスらの暴行で車椅子生活、夫人はアレックスらから強姦された後肺炎で亡くなった。

マスクで顔を隠していたためアレックスが犯人とは気づかず、「ルドヴィコ療法の犠牲者」として彼を利用し政権にダメージを与えようと考える作家。

しかし入浴中に口ずさんだ「雨に唄えば」で、アレックスが自分たちを襲った少年だと気づく。

一気に復讐心が沸き起こり、作家はアレックス本人から「第九を聴くと死にたくなる」という弱みを聞き出す。

そして薬で眠らせたアレックスを監禁し、第九を大音量で聞かせる。

苦痛に耐えられなくなったアレックスは死ぬつもりで窓から飛び降りる。

それも作家の計画の一つだったが、しかし彼は死ななかった。

目を覚ますとアレックスは包帯姿で病院にいた。

彼は精神科医のテストを受けるが、暴力行為や性行為への抵抗は無くなっていた。

アレックスの自殺未遂で評判が下がった内務大臣は、治療が成功した振りをして欲しいとお願いし、アレックスは承諾する。

すると2台の大きなスピーカーと大勢のカメラマンが入ってきて、握手する2人の写真を撮る。

スピーカーからは第九が大音量で流れ、アレックスは性的な映像を想像し、陶然と酔いしれる。

アレックスはまた以前の姿に戻ったのだ。

 

アレックスの状況に関しては因果応報、当然だとも思えるが、自分を守ることすら出来ない姿を見ると何が善で何が悪か、分からなくなりそうだ。自由放任主義全体主義のジレンマを描いた風刺的作品とされているが、考えようによっては犯罪者の人権はどれくらいあるのかということもテーマとして上がってくる。

 

私は純粋に、芸術としてこの映画を好きだ。「雨に唄えば」をこんな使い方して許されるのも、この映画だけだと思っている(勿論、批判する人もいるだろう)。

芸術としては見れないとしてもそれは仕方のないことだ。人にはそれぞれ美学がある。そしてそういう人は社会派映画として見れば少しは落ち着くかもしれない。しかしまあ、いずれにせよ、子どもや"純な心"を持った大人は見ない方がいいが。


とにかく"哀れで惨めでクレイジー"な男の"哀れで惨めでクレイジー"な暴力とセックスでぐちゃぐちゃにな人生を観たい人にはお勧めする。

 

参考動画↓(一応、閲覧注意‼️)

https://m.youtube.com/watch?v=XyUkMtAOxKY

 

映:イン・ハー・シューズ

監督:カーティス・ハンソン
制作国:アメリ

 

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あらすじ
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周りが羨むスタイルと美貌を持ちながら問題ばかり起こす妹マギー。姉ローズは弁護士として成功しているものの、自分の容姿に自信が持てず、高価な靴を買いながらも履くことはない。定職にも就かずローズの家に居候していたマギーはある時、ローズの留守中に訪ねてきた彼女のボーイフレンドと寝てしまい、家を追い出される。行く当てのないマギーは祖母エラがフロリダにいることを知り、訪ねる。

家族と絶縁していたことに罪悪感を抱くエラは埋め合わせができると思い、マギーを歓迎するが、マギーはエラのお金を盗もうとする。
エラはマギーに施設内の介護の仕事をするように言う。そこでマギーは盲目の元大学教授と出会い、詩の素晴らしさを教わる。コンプレックスであった難読症を克服しようと努力するうちにマギーは大きく変わっていく。

一方、ローズも自分を見つめ直し、弁護士の仕事を辞めてドッグシッターを始める。ローズは仕事を辞めてからも気にかけてくれた元同僚のサイモンと親しくなり婚約する。
やがてフロリダでローズとマギーは再会して和解。ローズはエラの靴を履いてサイモンと結婚式を挙げ、マギーは結婚式で詩を読んでローズに贈る。
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"In Her Shoes"とは、「彼女の立場になって」という慣用句である。
真面目で堅い姉のローズと無鉄砲で自由な妹マギーが喧嘩して仲直りして以前より仲良くなるという在り来たりなストーリーではあるが、作品の中で素敵なシーンがあったので紹介したい。
それはマギーがエリザベス・ビショップの『One Art』という詩を読むシーンである。


難読症のマギーは施設で元大学教授のおじいさんにお願いされてこれを読み上げる。
文字を読むといつも言葉に詰まり、その度に周り人の目を気にしていたマギー。

おじいさんはゆっくり、一文字ずつ読めばいいと優しく励ます。
そしてマギーは躓きながらも読み切る。
おじいさんはマギーに問う。
「これは何の詩?」
マギーは迷い、答える。
「…愛」
「何の愛?」
「友情」
「Aプラスだ」
マギーは嬉しそうに微笑む。
自信を取り戻したような表情であった。
喜んだマギーはその後、おじいさんに色んな本を読み聞かせた。
登場シーン自体は少なく、作品の終盤に亡くなるおじいさんだが、彼が物語そしてマギーに与えた影響は計り知れない。

彼は、上手じゃなくても自分の力で読んで、そこから何かを感じることに意味があると教えてくれたように思う。


効率重視で、つい過程を省きたくなる。
企業が即戦力を求めるように、私たちが学歴や肩書きを欲しがるように。
そこから得られるものもあるが、別の世界に行けばそこにもたくさん得られるものがある。
何かを味わう過程を大事にしたいと思った。


そして詩も素敵な内容なので、和訳とともに紹介する。

(映画では中間が省略されていたが、ここでは全文載せることにする。和訳はネットのものを参考に自分で付けた)


マギーがなぜ「愛」「友情」と表現したのか。彼女の言う「友情」はきっと姉との「友情」。
自分は何の詩に聞こえるのか、考えながらだと面白い。


***


One Art      By Elizabeth Bishop


The art of losing isn't hard to master;


so many things seem filled with the intent


to be lost that their loss is no disaster.


失う術を習得するのは難しくない
とても多くのものが忘れられるために存在するようで
だから たとえそれらがなくなっても大惨事にはならない


Lose something every day. Accept the fluster


of lost door keys, the hour badly spent.


The art of losing isn't hard to master.


毎日何かを失くしている
ドアの鍵をなくした動揺も 無駄にした時間も
失う術を習得するのは難しくない


Then practice losing farther, losing faster:


places, and names, and where it was you meant


to travel. None of these will bring disaster.


次はもっと大掛かりに 速く 失う練習をしよう
場所 名前 旅するはずだった行き先
どれも大惨事には至らない


I lost my mother's watch. And look! my last, or


next-to-last, of three loved houses went.


The art of losing isn't hard to master.


母の時計を失くした そしてほら!好きだった三軒の家の 最後の それか最後から二番目の家 なくなってしまった
失う術を習得するのは難しくない


I lost two cities, lovely ones. And, vaster,


some realms I owned, two rivers, a continent.


I miss them, but it wasn't a disaster.


二つの素晴らしい街を失った
そして広大な領土も 二つの河も 大陸も
恋しいけれど 大惨事には至らなかった


-Even losing you (the joking voice, a gesture


I love) I shan't have lied. It's evident


the art of losing's not too hard to master


though it may look like (Write it!) like disaster.


あなたを失うことでさえも
(その冗談めかした声 大好きな仕草を)
私は嘘はつかない
失う術を習得するのは難しくないから
たとえそれがとても(書いてしまえ!)大惨事に思えても


***


最初に訳なしでこれを読んだとき、私も「愛の詩」だと思った。

でも私には、「友情」ではなく「親への愛」に思えた。


ローズの結婚式では別の詩を読んでいたのでそれもいつか紹介するかもしれない。


予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=hkKhHSQE0ig

 

 

映:桐島、部活やめるってよ

監督:吉田大八

原作:朝井リョウ

制作国:日本

 

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あらすじ

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ありふれた時間が校舎に流れる「金曜日」の放課後。一つだけ昨日までと違ったのは、学校内の誰もが認める"スター"桐島の退部のニュースが校内を駆け巡ったこと。彼女さえも連絡がとれずその理由を知らされぬまま、退部に大きな影響を受けるバレーボール部の部員たちはもちろんのこと、桐島と同様に学校内ヒエラルキーの"上"に属する生徒たち、そして直接的には桐島と関係のない"下"に属する生徒まで、あらゆる部活、クラスの人間関係が静かに変化していく。

校内の人間関係に緊張感が張りつめる中、桐島に一番遠い存在だった"下"に属する映画部前田が動きだし、物語は思わぬ方向へ展開していく。

>>

 

学校を舞台に様々な人間が物語をつくるグランドホテル方式。


朝井リョウのデビュー小説。

原作は登場人物毎に章立てされたオムニバス形式だ。

それを映画では曜日毎に章立てし、複数の視点から同じ時間を何度も描く。

所謂学校内ヒエラルキーの"上"に属する女子生徒たちの言う陰口が"下"に属する生徒に聞こえていたことが直後の章で分かった瞬間、ヒヤッとする人もいれば静かに頷く人もいるだろう。

 

台詞も演技もリアリティーを追求したものであった。

私は放課後直帰型帰宅部だったので残念ながら共感はできないが、こういう人たちを傍観していたのを思い出した。

女子生徒たちの、力が抜け語尾が伸びる話し方や、コロコロ変わる声のトーン。或いは自信なさげに一定のトーンを保つ話し方。

男子生徒たちの退屈そうな表情。或いは動揺した目の動きとオドオドした話し方。

ある女子生徒は、自分の彼氏に好意を持つ子の前で彼氏とキスする。自分の物だと言わんばかりに。

さまざまな高校生が描かれるがどれも納得のいく人間像である。


桐島が部活をやめただけで周りはひどく動揺し、そしてこれでもかと振り回される。

たかが部活。だけどそれが狭い世界にいる生徒たちには分かりやすいアイデンティティなんだ。

桐島がどうして部活をやめたのかは分からない。

こんなにも周囲に影響を与えた桐島は一度も登場せず、ついにその胸の内は明かされないのだ。

気まぐれか、周囲の反応を面白がっているか、もしかしてその小さな世界から抜け出したかったのか。

部活をやめた桐島に興味がなくなったら人は離れていくかもしれないし、もしそうなったら桐島は耐えられないだろう。

彼らは小さなことですぐ揺れ動くけど、肝心なところは何も変わらない。変われない。

イエスマン」でいることを求められ、そうでなければ弾かれる。

そして弾かれたものもまた、「イエスマン」を蔑み距離を置く。

"いま"の高校生の置かれた状況を飽くまで客観的に丁寧に描いた映画だったが、私はついそんなことを考えてしまった。

 

原作も映画も最後は映画部の前田と"上"に属する宏樹が二人きりになる。

しかし映画ではそこに至るまでに原作にはないシーンが加えられた。皆が屋上に集まるシーンである。

物語の終盤、とある火曜日。校内にはずっと休んでいた桐島が学校に来ているというニュースが流れる。

それぞれが別の場所から桐島を求め屋上に押しかける。そこでは映画部がゾンビ映画の撮影をしていた。

桐島の不在に苛立つ"上"の生徒たち。撮影の邪魔をされ、無関係ながら振り回された前田はついにキレる。

そこからの屋上はカオスである。生徒たちがゾンビに襲われる仮構の世界を前田のカメラが写すのだ。その映像がなかなか面白い。

錯綜した彼らの思いが、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような雑多で威勢のいい革命感があった。

映画ならではの演出だ。

(↓ドラクロワ民衆を導く自由の女神』)

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騒ぎが収まって二人きりになった前田と宏樹。

初めて交わしたわずかな会話は、驚くほど穏やかで、嵐の後の空気のように清冽で澄んでいた。

 

予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=KjjG0WTQ6C4

 

映:マイ・プライベート・アイダホ

監督:ガス・ヴァン・サント

制作国:アメリ

 

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ネタバレ注意‼️‼️‼️‼️

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親に捨てられ、男娼として生活をするマイク(リヴァー・フェニックス)。

市長の息子でセレブだが、親への反抗心から男娼になったスコット(キアヌ・リーブス)。

生い立ちは正反対だが、ふたりは親友だった。

美しさを持て余した彼らが繰り広げるのは単なるロード・ムービーではない。

実はマイクはスコットに想いを寄せていたのだ。

 

マイクだけではない。

ストリートで暮らす若者たちには、ひとりでは抱えきれないほどの痛みがある。

同性愛、ドラッグ、ナルコレプシー、売春、近親相姦。

そんな彼らの姿は、独特な演出で美へと変換される。

セックスの描写として彫刻作品のように静止してみせる生身の人間。

絶頂と共に崩れる建物の映像。

異質な美しさと、持ち合わせた重い主題に私は目が離せなかった。

 

 

ある日、マイクは自分を捨てた母親を捜すことを決意し、スコットと共に故郷アイダホへ向かった。

そこには兄のリチャードが住んでいる。

そこでマイクは衝撃的な言葉を放つ。

「あんたが父親だ」

言葉の通りならば、母と兄は近親相姦で結ばれたことがあるということになる。

映画の中で真実が明かされることはなかった。

 

なんとか母親の手がかりを得て、ふたりはイタリアへ向かう。

そこで出会った女性に恋をしたスコットは、父親が病気だと知り、彼女をフィアンセにして実家へ戻る。

そこでマイクとスコットは離れ離れになる。

マイクは母親がアメリカに帰ると言ったまま消息を絶ったことを知る。

スコットの父親の葬儀で再会するマイクとスコットだが、お互い住む世界が違うことを再認識するだけだった。

自然豊かなアイダホのどこまでも続く一本道。マイクはひとりでそこに立っていたが、ナルコレプシーの発作で眠り始める。

 

マイクはナルコレプシーという病気を持っていた。

それは、突然堪えきれない眠気に襲われてそのまま眠ってしまう病気。

如何なる状況でも自分の意思に反して寝てしまう危険な病気だ。

現にマイクは襲われかけたことがある。

発作を起こすといつもスコットが安全なところまで運んでくれた。

親友であり、失った母親のようでもある彼をマイクは愛した。

私がLGBTという表現が好きじゃないのは、なぜ「愛」と「同性愛」「両性愛」を分けたがるのか、分からないから。

それが便利な表現だということは理解できるが。

 

ナルコレプシーで倒れたマイクの前に1台の車がやって来る。

運転手はマイクを車に乗せ、走り去る。

それが誰なのかは分からない。

スコットであって欲しいと、強く思うが。

 

愛というのは、どんな形であれ報われなかったものの方が心に残る。

自分のものではなくても、悲恋の方がずっと苦しく美しい。

この映画で描かれる誰一人心から幸せにはなれなかった。

その棘が私には魅力的だった。

そしてこの世界は、交わらない愛で溢れていると感じた。

 

 

予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=xA0U0otWuzE

 

予告は字幕なしです。

 

映:アロイス・ネーベル

監督:トマシュ・ルナク

制作国:チェコ/ドイツ

 

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国立映画アーカイブで行われた『EUフィルムデイズ』で再上映した過去の作品。

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歴史的背景や技法などの予備知識ほぼ無しで観たため理解できていない部分があるが、非常に見応えのある作品であった。

そして鑑賞後の監督インタビューも興味深いものだった。

 


内容としては、あまりオープンに話されない歴史的出来事がテーマ。

第二次世界大戦が終わり、チェコのある地域では移住していたドイツ人が追放されていく。

当時チェコ人とドイツ人の国際結婚もあり、家族が離ればなれになることもあった。

それは主人公のアロイス・ネーベルが幼い頃の出来事である。

鉄道員である彼を取り囲む古い記憶は深い霧によっていつも呼び起こされる。

その現象に苦しむ彼は精神病院に通う。

原作であるコミックスは3部作まであり、その1部目がここまでで終わる。3部は独立した話で、それらを繋げ、ひとつの作品にすることに苦労したという。

その後も、精神病院で別の人物が酷い治療を受けているのを見たり、そこから出た後には親しくなる女性が出てきたり、1人の人物を中心に豊かなストーリーが展開される。

 


主人公はドイツ人と接触があったチェコ人なのだが、彼の名前「アロイス・ネーベル」というのはドイツ名だ。

「ネーベル(Nebel)」はドイツ語で「霧」という意味。

反対から読むと「レーベン(Leben)」、「人生」という意味になる。

霧が多いその地域で人生を送る男だからというのが由来だと監督は話す。

音の響きもその意味も美しいと感じた。

 

また、個人的にロトスコープという手法の作品を観るのは初めてで、最初はリアル過ぎる音声と細かい人間の動きに驚いた。

最初に俳優を使って実写映画を作りそれを元にアニメーションを作るというロトスコープの複雑な工程の成果として、リアリティの追求には成功していた。

しかし正直アニメーションにする必要性は分からなかった。

インタビューでは原作であるコミックスの絵に近づけたかった、大人に見てもらいたかったと監督が話し、それなりに理由はあるようだったが、それは後付けで本当は技術的な面で挑戦したかっただけなのでは、と感じた。

何せチェコロトスコープが用いられたのは今作が初めてなのだから。

 

でも音の臨場感は素晴らしかったし、霧に包まれて様々な記憶が男を支配するときの光の描写は釘づけになる。

これが監督の初めての長編作品だなんて信じられない。

 


質問する勇気がなくて残った疑問は、水道の栓を閉めるショットの意図。何度も描かれて印象的だったが…謎に包まれたまま終わってしまった。

なかなか観る機会は訪れないであろう作品。思い切って飛び込んでよかったと思う。

 

 

予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=XbSaX5EehfU

映:海街diary

監督:是枝裕和

制作国:日本

 

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あらすじ(ネタバレ注意‼️‼️)

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十五年前に家を出た実父が闘病の末に亡くなった。その父が再々婚しており、遠く山形に暮らしていたことを香田家の三姉妹は知る。自分たちを捨てた父親との確執から長女の幸は仕事を理由に次女の佳乃と三女の千佳を告別式に送り出す。二人を駅で出迎えたのは中学生になる腹違いの妹すずだった。翌日の葬儀に来ない予定だった幸がなぜか現れる。看護師である幸はすずの置かれた肩身の狭い境遇とすずが父を看取った事を感じ取る。幸はすずに父との思い出の場所に案内して欲しいと頼む。するとすずは小高い山の上に姉妹たちを案内した。佳乃たちはそこが鎌倉の風景によく似ていると話す。すずとの別れに際し、幸は鎌倉で一緒に暮らさないかと持ちかける。すずは「行きます」と即答する。

こうしてすずを迎えた香田家は四姉妹となった。サッカー好きで明るい性格のすずは鎌倉の生活にもすぐに溶け込み、チームでコンビを組む風太と親しくなった。

頑なだった幸を父の葬儀に送ったのは交際中の小児科医、椎名だった。椎名は心の病を抱える妻との離婚に踏み切れずに幸との関係を続けていた。市民病院で働く幸には新設される終末期病棟への転属の話が持ち上がっていた。「看取る」ことの難しさは椎名に言われるまでもなく幸も感じていた。

酒と男が生き甲斐という佳乃は貢いでいた若い恋人に捨てられる。それを契機に信用金庫の窓口嬢だった佳乃は融資担当で外回りの仕事への配属変えを受け入れる。佳乃はさち子が弟から遺産相続分を請求され、海猫食堂が存続の危機に陥っていることを知ってしまう。佳乃は上司の坂下と共に店の存続のために奔走する。

千佳は勤め先の店長と交際していた。彼の趣味に合わせ、すずたちの居るサッカーチームのサポーターとなり、渓流釣りにも興味を示す。だが、元は山男だった店長はエベレストで遭難し、凍傷で足の指を6本失いながらも山への未練を捨てきれずにいた。

サッカーチームの勝利を祝すため千佳はすずに梅酒を飲ませるが運悪くそれは佳乃が自分用に作ったものだった。酔っぱらったすずは義母や父に溜まっていた鬱憤をぶちまける。姉妹たちは非の打ち所のないすずに深い悩みがあることを知る反面、酒乱の癖が佳乃に似ていることに苦笑する。

新学期になりすずはクラス替えで風太と同じクラスになる。二人は付き合っていると噂を立てられていた。チームメイトたちと『山猫亭』を訪れたすずは、店主が父の古い馴染みであることを知る。亡父を思いだしセンチメンタルになるすずを風太は自転車に乗せ、満開の桜並木が作り出すアーチを疾走する。

そんなとき、北海道で暮らす幸たちの実母・都が法事にやってくる。身勝手で子供じみた母にかねてから反発していた幸。すずは都から何を言われるかと心中穏やかではない。都はすずと衝突することはなかったものの、突然家を処分しろと言いだす。都と幸は大喧嘩になり、史代から叱責される。だが、佳乃はいずれ皆この家から巣立つとクールに語る。明るいすずも、不倫の子であることで、姉たちに引け目を感じていた。幸と料理をしていたすずは「不倫は良くないね」と話し、そんな引け目を示唆する。幸が不倫の恋をしていることは知るはずもなく。

翌日、夜勤で日中家に居た幸を都が訪ねてくる。都は渡しそびれたと姉妹たちへのお土産を置いていく。すずの分も用意されていた。雨の中、都と祖母の墓参りに行った幸は、都が母親との根深い確執に悩み、家は彼女を縛り付ける窮屈なものだったが、幸たちにとっては大切な場所だと思い知らされたと謝罪する。幸は北海道に帰る都に、家族の思い出の品である梅酒を手渡すのだった。

季節は夏を迎え、花火大会が近付いていた。幸はすずのために自分の浴衣を仕立て直す。浴衣を着たすずはサッカーチームのメンバーと洋上で花火見物をする。その帰り、すずは風太に「ここに居ていいんだろうか」「自分の存在が人を常に不幸にしている」という、姉にも言えない悩みを打ち明ける。

千佳とすずは一緒に作ったカレーを食べる。香田家のカレーは都が幸に唯一伝えた「シーフードカレー」だったが、千佳は姉たちには不評な「ちくわカレー」が祖母との思い出の味だった。祖母を知らないすず、父をほとんど覚えていない千佳。千佳はお父さんのこと教えてねとすずに話す。

佳乃と坂下の奔走により、融資により店が続けられることをさち子に伝える。だが、さち子は余命が限られており、店を畳み、終末期病棟に入ることを決めていた。酷く落ち込む二人だったが、坂下はさち子のために遺言書を作成することは出来ると話す。

椎名は研究のため渡米する決意を固め、幸に一緒に来て欲しいと告げる。人生の岐路に立たされた幸は悩み抜く。大人の事情で子供時代を奪われたすずを思い、幸は姉妹たちとの生活を選んで椎名に別れを告げる。

幸とすずは二人で山に登る。そこはかつて父が幸を連れてきた場所で、父が家族を捨ててからは一人で来る場所だった。その風景はすずが姉妹たちを案内した山形の風景にそっくりだった。二人でひとしきり叫んだ後、幸はすずに「ここに居ていいんだよ」と告げる。

幸は看護師としてさち子の最期を看取った。葬儀で大泣きする佳乃。さち子との想い出をひとしきり語った仙一は帰り際の姉妹の中からすずを呼び止め、「お姉ちゃんたちには内緒でお父さんのこと聞きにおいで」と告げる。

浜辺を散策する四姉妹は人生の最後について語り合う。無邪気に波と戯れるすずを見ながら、幸は「お父さんはダメな人だったけれど、私たちにすずを遺してくれた」と妹たちに語った。

 

 


個人的に、この映画は絶対に観たい!と強く思っていた。

長澤まさみは初恋の人と言っても過言ではないくらいかつては好きだったし、何より自分が鎌倉市民であるからだ。

思っていたくせにテレビで放映されるまで観ていなかったのは、好きな食べ物は最後まで取っておきたいこの性格故だ。死ぬ直前にでも観る予定だったが、急遽変更して休日の朝から観てしまった。

 

ストーリーもキャストもロケーションも最高のものが集まっている。

 

まず台詞がとても良いのだ。

「もしあれだったら」とか「とりあえずあれして」とか、これで相手に伝わるということを我々は知っているけれど、それを台詞にする人はそうそういない。人間の会話を、話し言葉というものを、監督はよく聴いているのだなと思う。

そして、すずの口調が段々柔らかくなる。これは、彼女の緊張が解けて家族に馴染んでいく過程を滑らかに表現していると思う。

脚本を、敢えて彼女にだけは見せなかったらしい。監督が口で言った言葉をその場で覚えさせる。この思い切った手法が功を奏し、台詞が彼女自身の言葉として自然に出て来た。

 

素晴らしいキャスト陣。
噂には聞いていたが広瀬すずの透明感、いや、透明だと見えないので半透明感が凄い。

私は演技は声と目が重要かなと個人的に思うのだけど、彼女は瞳の奥の色を変えることができる人のような気がする。

少なくともこの作品においては。

蒼井優も評価していたが、桜のトンネルを自転車でくぐるシーンにて、彼女の髪についた花びらが最後に取れるのは当に神の御業。運まで味方に付けているらしい。

夏帆は安定感があって演技というものを感じさせない。

綾瀬はるかはお母さんにしか見えない程の長女っぷり。

長澤まさみは顔、声、スタイル、演技、全て好きなので困ったものだ。天真爛漫さと大人の落ち着きの同居した役柄がとても良い。

 

美しいストーリーだ。

それぞれに、悩みがある。それは寧日に刺さった棘。優しくとも触れれば痛みが走る。それは自分の力で乗り越えなければならない。

しかしそれはコーヒーに垂らしたミルクのように、エントロピーを増大させ静かに調和する。ここでいうコーヒーは家族の温かさ。ミルクはそれぞれが家に持ち帰る悩みや疲れ。

 

 

もう一度観たい。

大好きな鎌倉の風景と、風に揺れるカーテンのようなお話。

是枝監督の作品をもっと観たい。

 

 

予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=klRrF-EMvk4

 

映:チョコレートドーナツ

監督:トラヴィス・ファイン

制作国:アメリ

 

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あらすじ(ネタバレ注意‼️‼️)

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1979年、カリフォルニア。

歌手を夢見ながら、ショーパブでパフォーマーをして暮らしているルディは、客として訪れた検事局のポールと交際を始める。

そんなとき、ルディはアパートの隣の部屋に住むダウン症の少年マルコが、母親が逮捕されたために施設に送られたという事実を知る。

何度も脱走を試みるマルコの姿に心を痛めたルディ。マルコを引き取り共に暮らすようにポールを説得する。

同性愛の恋人同士であることを伏せ、法的手続きによりマルコの監護者となった二人は本当の両親のようにマルコに愛情を注ぎ、三人で幸せな日々を送る。

しかし周りの反応は冷淡であり、二人はマルコの養育者と認められず裁判沙汰となる。

弁護士の奮闘もむなしく、ルディとポールはマルコとの関係を引き裂かれる。

そして施設に送られ再び脱走を試みたマルコは放浪のあげく亡くなる。

歌手となったルディは、怒りと悲しみを込めて歌う。

 

「1970年代、ニューヨークのブルックリンでゲイの男性が育児放棄された障害児を育てた」という実話を基に制作された映画。

 

とても心に響くものがあった。


いつの間にか作られた常識というものが罪なき人から家族や愛、ついには命まで奪った。

心安らぐ家を探し歩いた。

私たちにもある家。

そこに帰ろうとした一人の少年が死んだ。

それでも常識を押し付けた人たちのうち何人かは後悔などしないかもしれない。

なぜなら彼らは自分が正しいと信じて疑わないから。

私だってそうだ。

私だって、彼らは間違っていたと信じてやまない。

正義と悪は表裏一体だと感じる。


必死に愛を訴えかけて、自分のプライバシーを晒されても冷静でいようと努めて、それでも最後は感情が溢れてしまう、法廷シーンのルディ。

マジョリティーの勝利を目の当たりにして、『重力ピエロ』という小説のあるセリフを思い出す。

「多数決と法律は重要なことに限って、役立たずなんだ」

この言葉が真実なのかもしれない。

 

彼らの間にある愛は紛れもなく本物であった。

愛には形がない。

目に見えないものを信じたり信じなかったりする私たちは、見えないそれを何度も色眼鏡で見ようとする。

そして見誤る。

それが誰かの幸せを妨げることだとしても。

私にとって、映画を観たり本を読んだり勉強したりすることは、その濁った眼鏡を少しでも澄んだものにできる手段の一つだ。

人の幸せを妨げないための。

 

"Any Day Now"

「いつの日か」

これがこの映画の原題だ。

(正直、邦題はあまり良いものではない。)

ルディが最後に歌う曲の歌詞にも使われている。

"Any day now, I shall be released."

「いつの日か、解放されるだろう」

祈るように、互いに確かめ合うように歌うルディの姿に涙が溢れた。


私は愛に肯定的でいたい。

 

予告動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=Cl1eogSd1lM