苦しき生より逃ぐる術
最近、松本人志氏の「死んだら負け」という発言が賛否を巻き起こしているらしい。
『賛否両論ある』というのは当たり前。むしろそれが誰かの命を救うかもしれない。
ある女の子が自らの命を絶った。
その子がアイドルだろうが一般人だろうが、或いは男だろうが女だろうがどちらでも無かろうが、悲しむ人がいること、悲しまない人がいることに変わりはない。
私はニュースを見るまで彼女のことを知らなかった。
では後者か、否。
では前者か、否。(そう言い切ってしまっていいのだろうかと思った。しかし胸を張って彼女について語れないのも事実だった。)
私がここで語っても誰も気付かない。
誰も望んでいない。
でも書きたいと思ったのは書かないとまた考えてしまいそうだから。
ひとりの人間の、自由な選択という不自由について。
冒頭の松本人志氏の発言は、亡くなった彼女、今まさに考えている人、今後考えるかもしれない人、そして彼らを囲む全ての人間に向けられたものに見える。
こんな記事を書いておいて(まだ途中だが)恥ずかしいことに私はその発言を直接は聞いていない。
『女性自身』の記事を読んで知っただけだ。
だから彼の意図するものが私には伝わっていないかもしれない。
しかしどうやら「自殺の理由はひとつじゃないと思う」「死んだら負けだ、とみんながもっと言うべき」といった旨の発言をしたそうだ。
「自殺の理由はひとつじゃない」
その通りだと、私も思う。
自分の話をする。私は彼女ぐらいの年齢の頃(数年前)、不登校、そして引きこもりになった。彼女と同じではない。しかし同じように周囲は理由を知りたがった。私はいつも上手く答えられなかった。
この世に自分の苦しみを事細かに他人に伝えられる人はどれくらいいるだろう?
彼女の苦しみはどれくらい、ひとりの人間に伝わっているだろう。
支えてあげたい、理由が知りたい、そんな思いに応えられるほどの言葉が、この世にどれくらいあるのだろう。
分からないのは理由より気持ち。
彼女の気持ちを、自殺を思いとどまらせるほどに理解することはできなかった。
「理由はひとつじゃない」
私の思うそれは
「全てが理由になってしまう」
後悔というやつが付きまとった言葉だ。
「死んだら負けだ、ともっとみんなが言うべき」
言うべきだ。誰かが。しかしみんなではない。
冒頭で述べた「賛否両論が誰かの命を救うかもしれない」というのは即ち、別の意見が無ければ救える命は限られるということ。
一本の太い縄はそれ自体が切れることは無くとも、つかまっていられない人の手を握り返すことはない。
細い縄の先端に輪っかを作れば、それを身体に引っ掛けて救える誰かがいるかもしれない。
心に訴えかける道もひとつではないということだ。
松本人志氏は『負け』というのを、もちろん比喩として用いただろう。
だから私も比喩としてこう反論したい。
「戦っていたくないから負ける人もいる」と。
生きる苦しみが身体を蝕むこともある。
でも知っていて欲しいのは、負ける前に逃げることだってできるということ。
それは負けを認めるより難しく見えるかもしれない。
しつこく理由を問われたり、普通じゃないと罵られたり。
でも誰に何と言われようと、気にしなくて良い。
誰かに追い抜かされながら、私はそれでもゆっくり、自分の道を作ってきた。
出来るなら『死』という結論は、逃げ疲れるまで取っておいて欲しい。
悪いけど、私は1ヶ月もしないうちに彼女のことを忘れる。
忘れなければならない。
考えなければならないことが他にもたくさんあるんだ。
やらなければならないことも、やりたいことも、たくさんある。
せめて生きてさえいれば、私は君より君のことを考えて、君より君の命を大切にするのに。