Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

本:セロ弾きのゴーシュ

タイトル:セロ弾きのゴーシュ

作者:宮沢賢治

 

【あらすじ】

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ゴーシュは町の活動写真館の楽団「金星音楽団」でセロ(チェロ)を弾く係。楽団では近く町の音楽会で演奏予定の『第六交響曲』の練習を続けていたが、あまりにも下手なためにいつも楽長に厳しく叱責されていた。そんなゴーシュのもとに、カッコウを始め様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏を依頼する。そうした経験を経た後の音楽会本番で「第六交響曲」の演奏は成功し、司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名した。ゴーシュは馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しつつ、「印度の虎狩り」という曲を夢中で演奏する。その演奏は楽長を初めとする他の楽団員から賞賛を受けることになった。

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引用(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/セロ弾きのゴーシュ

青空文庫・全文閲覧可能(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/470_15407.html

 

 

【感想】

扨、何を語ろうか。ひと通り読み終わって、「種は蒔いたのだから何か出てくるはずだ」と待っているが、なかなか芽が出ないのである。

自分の感情を新鮮なうちに言の葉にしようと、読んでいる途中でメモを取っていた。いかんせんまとまりそうにはないが、勿体無いので紹介したい。

 

近代文学現代文学との間には、付かず離れずの不思議な距離感があると思う。チェロのことをセロと書いたり、楽器の音色をごうごうと表現したり、くゎくこうと書いたりかくこうと書いたり——しかもそのあとにはちゃんと"かっこう"と書けているのである——しているのを見ると少し違和感を覚えるのだが、しかしこれと言って分からない言葉がある訳でもない。」

ここまで書いて、自分の中ですべて完結していることに気が付いた。どうも私はこの不思議な文章を柔軟に受け入れることが出来てしまったようだ。私はメモ帳を一枚くしゃくしゃに丸めた。

 

「音楽会へ向けて練習をしているゴーシュと他の楽手たち。このシーンを読んでいて二つの正反対な映画が頭に浮かんだ。一つは『セッション』というジャズオーケストラの映画で、もう一つは『フォレスト・ガンプ』というヒューマンドラマ映画で、どちらも非常に有名な作品だ。

まず『セッション』では、主人公が映画の中で酷い罵声を浴びせられながらドラムを叩き、自主練習のときも両手が朱殷に染まるほどには叩き続ける。それが、楽長に怒鳴られるゴーシュと僅かに重なったのだ。

次に『フォレスト・ガンプ』では、主人公は相対的に見ると、知能指数が低く変わり者で、子どもの頃スクールバスで学校に行くとき誰も隣に座らせてくれなかったのだ。その様子が、ゴーシュが注意されている時周りの人が見て見ぬ振りをしている描写と、これまた僅かに重なる。また、最終的に多くの人から賞賛されるという点ではすべての作品が共通している。

しかし、こうして並べたのは私が初めてではないか、そう思ってしまうくらい両者はかけ離れている話だと繰り返し述べておこう。」

私はまたメモ帳を一枚切り離し、今度はシュレッダーにかけた。そして、最後の一枚に手を掛ける。

 

「動物たちはたとえ自分が嫌われても、ゴーシュに大切なことを教えてくれた。ゴーシュは、猫からは激しい感情表現を、かっこうからは基礎的な音程を、狸からはリズムを、そしてねずみたちからは自信を、知らず識らず与えられていたのだ。動物が何かを教えてくれるようなファンタジー作品や未熟な主人公が成長する教養小説ビルドゥングスロマン)のような作品は数多く存在するが、ゴーシュのように人間臭い主人公は滅多にいない。率直に言うと私は彼のような自惚れ屋で暴力的で他人——ここでは動物だが——の優しさに後で気付くばかりの人間は好きではないが、それでも人間味があると思えば嫌いでもない。また最後の一文から、彼は今後、冷静に自分の演奏を省みて反省したり周りへの感謝をしたりできる人になるのではないかと期待している。」

最後の一枚を書き終えたところで風が吹き、この紙はどこかへ飛んで行ってしまった。誰かに拾われて読まれていないといいのだが。