我が人生の通奏低音
小さい頃に、お父さんが作ってくれた熊の置物。
お姉ちゃんのには牙があるけど私のにはない。
きっと深い意味はなかったと思う。
お姉ちゃんは男の子みたいだったから、とか。
私はまだ幼いから子グマにした、とか。
きっとそんな感じ。
なんだけど、この熊がどうも私という人間に地味に影響していたらしい。
優しくて純粋で、誰も傷つけない。
牙のない熊がとても誇らしかった。
幼心に自分の分身のように感じていたから、その置物が牙を持たないことが誇らしかった。
なんとなく、自分はそういう人間になっていく気がした。
自惚れすぎかな。
でも時々思うんだ。
誰に好かれなくてもいいから、いい人でいたい。
所謂、「あいついい奴なんだよ」のあいつになりたい。
結婚とか恋愛とか、自分には向いてないなって思うからこそ、誰にでも善意を向けられる人でありたいなって。
みんなが敵に見えて生きるのが怖くなった人が、一人だけでも絶対的に自分に優しくしてくれる人がいるって思ったら、救われるのかなとか考える。
自分を裏切らないと九割信じられる人が一人と、五割くらい信じられる人が三十人。
私は前者の方が安心だ。
勿論、少ないことへの代償はあるかも知れないけどね。
五割くらい信じられる、裏を返せば五割くらい疑いを捨てられない相手は、人数が増えるほど負担が大きい。
熊のおかげでとてもいい人になれそうな私は、完璧ないい人にはなれそうもない。
矛盾するのは、完璧ないい人に憧れれば憧れるほど、そうでない人たちを恐れてしまうこと。
私は未だに部活の仲間と会うときに緊張している。
出会ってたったの二年しか経っていないから、当たり前っちゃ当たり前だ。
でも、ここまで警戒心が解けないなんて悲しい現実だなと思う。
今はとても好きな人たちだけど、きっとまだ嫌いになれる。
好かれているかもしれないけど、嫌われる可能性はある。
そんな不安定な間柄。
もし私が完璧ないい人なら、無条件に彼らを愛せるのかな。
彼らがいい人じゃない可能性があっても、とことんいい人じゃなくても、愛せるのかな。
結局牙のない熊は分身なんかじゃなく憧れか。
或いは牙はなくても、鋭い爪で傷つけてしまうのか。
本能的に疑いや警戒心を持つのが動物の性なのか。
こんなことを考えている時点で人間らしい私なのだ。
さてさて、ここまで話したその熊の置物とやらは一体どんなもんか、誰も興味はないだろうけど載せてやろうじゃないの。
ほれ。
子どもの頃って、大人の作ったもの描いたもの全てがすごく上手に見えて大好きだった。
今やその感動はほとんど思い出せないけど、これは今でも凄いなって思える。
作品のレベルとかじゃなくて、ずっと幼いながらに抱いた感動を覚えている。
ありがとう、お父さん。