タイトル付けるのが難しい話
驚くってことは知らなかったってこと。
やっぱり、人の痛みは分かるようで分からないものね。
自分なんかは勿論だけど、親しかった人だって分からない。
他の人には分からない。
誰かの死が、いつも議論を巻き起こして、だけどそのうちに忘れ去られる。
話し合うことをやめてしまう。
考えることをやめてしまう。
どうして時代は進んでも、どれだけ技術が進んでも、人間だけは進歩しないんだろう。
猿人、類人猿、この辺はあまり詳しくないけれど、そうやって進化してきた私たちはヒトから先には進まないんだろう。
大切な人の死を乗り越えることは勿論生きていく上で必要なこと。
でもどうして同じことが繰り返されるのかって、忘れてしまうからなんじゃないの?
人の痛みなんて分からない。
でも分からないのと、分かろうとしないのは全く別のこと。
一生分かるはずのないことを分かろうと一生懸命にならないと、また誰かが決断してしまう。
分かろうとして苦しくなって、それで初めて少し理解するのかもしれない。
だから私は考え続ける。
人の痛みを、感じたいんだ。
最近読んだ短編、菊池寛の『身投げ救助業』はほんの少しだけ今回のことに似ている。
全く知らない人の生死に、無責任に関わること。
生きることが正しいと思っているから、老婆は自殺者を救助し続け、さらにそれでお金を貰って生きてきた。
でも最後に、自らが自殺志願者となったとき、彼女は自分のしてきたことがとんでもなく的外れだったことを知る。
それはとてもショックだろう。
でも私からしたらとても当たり前の話でもある。
死にたいという気持ちも、生きたいという気持ちも、老婆を許せない気持ちも、感謝も、恥ずかしさも、全部私にとっては簡単に受け入れられることだ。
悲しいけれど、そんな感情が一気にやってくる感覚を私も知っているから。
死にたいと思わせないことが、真にその人を助けるということだと思う。
誰かが私に考えすぎだと言う。
誰かが私に面倒くさいと言う。
誰かが私を弱い人間だと言う。
誰かが私を知っていると言う。
私は常に考えてしまうし、とても複雑な人間だし、弱い。
でもそれだけが私じゃない。
私を知っている人なんてこの世に誰もいない。
ただ一人の友人も、家族でさえ、私のことをよく知らないんだ。
私はあとどれくらい生きられるかな。
この世界で、どれくらい生きようと思えるかな。
これだけ喋っといてあれだけど、ある人の自死は話題じゃない。
ただその人が、最後に手にした自由なんだ。