Purple Fabric’s Diary

映画や本、その他諸々について自分の意見を書くブログ。日本人になりたい日本人。Filmarks ID:pierrotshio

感情的な人って時に羨ましく、時に可哀想になるよね

遠隔授業になったせいか課題が多い。

コロナの影響でお客さんが少ないんじゃないかと思って6月から始めたバイト先は、昼食と夕食の時間帯にはバッチリ混雑する。

なんとなく調べてみたらもう就活を始める時期らしく、すぐに本格的に調べ始めて自己分析やら企業研究やらで忙しい。

なんだよ、大学生って人生の夏休みなんかじゃないじゃんかよ。

楽しく過ごしてたの2年生の間だけじゃん。

(流行に乗るわけじゃないけど大学生の日常なんて一生戻ってこないんだから、就活始まるまでは好きなことしていたいよなあ。友だちと遊びたいよなあ)

正直しんどくて、つい数分前にはベッドに飛び込もうと思った。

さて、ここからが本題。

ベッドに飛び込もうと思ったのに実行できなかったのには理由があるのだ。

まず、埃が舞うから。週に1回は掃除機かけるんだけど(ベッドにも。友だちはやらないらしいんだけど普通そうなのかな)、それくらいじゃ絶対足りていない。埃やら何やら潜んでいそうで怖い。もとい、潜んだままでいてくれと思う。勢いよく飛び込んで、呼ばれたと勘違いした埃たちが出てきてしまったら自己嫌悪に陥るのは目に見えている。

それから、肌に刺激を与えたくないから。先に述べた通り綺麗とは到底思えない布団が、顔に(しかも勢いよく)触れるなんて怖すぎる。赤くなるかニキビできるか痒くなるか、想像するだけで後悔し始める(あれ、後悔ってやる前から出来るんだね)。

まあそんな、石橋叩いたら砂埃やばそうだから家でじっとしていようと考えるタイプの私には、感情的な人が可哀想に見えることが多い。

「あーあ、黒歴史作っちゃったね、可哀想に」

とか

「なんでもっとよく考えなかったのかな〜残念」

とか思う訳。

 

勿論、羨ましい時もある。

最近、突然泣きたくなった夜があったけど、私は例の如く実行しなかった(正確には15秒くらい泣いた)。

「明日、まぶたが腫れてしまうかもしれない」

それだけの理由で止まる涙なんて本物じゃない!と言われるかもしれないけど、どんなに本気で苦しくても我慢するときはするのが感情的になれない人間なんだと思う。

さすがにこの時は、リスク回避しすぎかなと思って感情のままに生きられる人を羨ましく思った。

 

まあ、畢竟バランスが大事よね。

臨機応変に、柔軟に、感情を出したり出さなかったりすること。

上手く生きるってそういうことかもしれない。

 

重なるよね。類友だよね、出来事も。

今日は朝から最悪だ。

 

顔を洗って鏡を見ると、

肌に少しだけ赤い点。

いつもと違う化粧水を

昨晩使ったからだろう。

プツプツしている訳ではなくて、

色だけなのが救いかな。

 

特に理由もないけれど、

気分じゃなくて、何となく、

毎朝飲んでるコーヒーを

今日は飲まなかったんだ。

そしたら何だかぼーっとして

課題をやってるはずなのに

気づくと意識が飛んでいた。

8時前には起きたのに、

結局何にも出来ないまま。

昼まで何にも出来ないまま。

 

家族の生活音響く。

レンジの開閉、食器音。

びっくりするとか頭痛とか

そうじゃないんだ、体がね

チクチクするんだ、痛いんだ。

 

特に好きでもなかったけど

甘いものが食べたくて

レーズンサンドを口にした。

ダイエット中の私には

ちょっと重いぞこのお菓子。

罪の意識と砂糖の量。

美味しいことは美味しいと、

自分で自分を慰める。

正直そこまで好きじゃない

だから余計に腹が立つ。

 

明日の発表に備えて

レジュメを見ながら原稿作り。

本当は先週発表を

終えるはずだった緊張感。

自信があった、はずだった。

けれど見直すと嫌悪感。

自分はダメな人間だ、

こんなレジュメしか作れない。

 

今日は朝から最悪だ。

自分はダメな人間だ。

悪いことって重なるね。

類友だよね、出来事も。

 

 

 

ほんとのほんとに独り言

どうせ誰も見てないから独り言でも呟いてみる。

そういうのはTwitterでやれって話なんだろうけど、どうも肌に合わないから。

なんか無理、生理的に無理、女子高生がおじさんに対して抱くような感情の軽度なものをTwitterに対して抱くんだ。

 

 

どうして人はこんなに傷つけ合うんだろうか。

30分くらいそれを考えて、結局答えなんか無いんだろうと諦めた。

この家は既に壊れている。

いつか今まで見過ごしてきた全ての報復がやってくる。

バチが当たる。

下敷きになる前に抜け出さなきゃ。

今すぐにはできないけど、私はそうしなければならない。

いつか、本当に、誰かが死んでしまうかも。

繊細なお父さんと人の気持ちが分からないと言うお母さん、ヒステリックなお姉ちゃん、自己中なお姉ちゃん。(私は全部当てはまっているかもしれない)

人が生まれることも、人が生きていくことも、その過程で人が惹かれ合うことも、すごく簡単で自然なんだ。

だってそうしないと、突き放したり傷つけたりできないから。

ほとんどの人が、とても自然に簡単に生きて、簡単に人を死なせてしまう。自分も簡単に死んでしまう人間だということには気付いていないかもしれないけど。

きっと私は、家族の誰かを死の淵まで追い詰めることができる。

それも、とても簡単に。

だって私は彼らによって簡単に追い詰められてしまう人間だから。

根がいい人なんだとか、幸せな思い出があるんだとか、いっぱい言い訳して何とか心を保っているよ。

それに心の支えはあるよ。

でも今私は、その言い訳と支えを失くしたら、消えてしまいそうだ。

 

簡単に、大切な人なんて作るべきじゃないね。

簡単に、壊してしまうから。

 

むなしいぜ、家族

最近母の残業が増えたので、たまに料理をするようになった。

実家暮らし。

父が別居中なので家族4人。

全員分、しかも栄養とかバリエーションとか考えながら作るのは、大変なんだなぁと感じる。

けれど別に辛い訳でもなく、一人で作っていると気分転換にもなると気づいた。

 

そんな最中、昨日姉に

「料理好きなの?」

と聞かれた。

あれ、私料理好きなのかな……

と改めて考えてしまって、更には

好きなのかもしれないな……

とほっこりした。

でもよくよく考えたら、そんなことよく聞けたな、という話でもある。

楽しんでいるからといって、感謝とか謝罪とか、しなくていい訳じゃないよね。

どちらかと言えば母と自分のためにやっているから「ありがとう」と言われても違和感はある。

そしてそういうのは私じゃなくてお母さんに言えよ、と思う。

でも当たり前のようにされるのも嫌だなあ。

じゃあどうしたらいいんだよって?

やだなぁ、分かってるじゃない。

 

一人暮らししろや!!!!

 

今年23歳になった私の姉2人。(双子)

そろそろ自立したらどうなの?

なんて、妹に言われたくないだろうけどさ。

分かってるんだろうけどさ。

元々すごく仲の良かった姉妹だけど、もう元には戻れそうもない。

大人になったと思うしかない。

たまに会うくらいがいいかもね。

 

 

むなしいよ、家族

はなればなれ

体より先に心なら

むなしいぜ、家族

このままで

いられるうちにサヨウナラ

 

 

ちなみに母は、苦手な牛乳を使った料理に嫌そうな顔。

折角作ったのにな、とちょっと嫌な気持ちになった。

でもそんなことで嫌いになったり、喧嘩したりするのは嫌だから

すっと心にしまって、自分の部屋でリラックス。

そして今日は母とお買い物。

 

 

楽しんで、家族

瞬く間

一人になってしまうなら

楽しいぜ、家族

このままで

いられるうちにアリガトウ

 

 

今回は拙い詩を披露しました。

いってきます。

自分を疑う勇気

木村花さん、という方が亡くなった件で、SNSの使い方やネットリテラシーを見直す流れができている。

私はLINE以外のSNSは見る専門なのであまり闇の部分(?)には触れる機会がなく、深く考えては来なかったが、今回は少し思うところがあったので考えをまとめておく。

 

まず私は木村花さんを全く知らない。

もしかしたら何時ぞやにネットニュースで名前を目にしたかもしれないが、記憶がないくらいだから全く知らないと言っても過言ではない。

テラスハウスに関しては湘南から始まり、東京、ハワイ、軽井沢まで行って途中で断念したタイプの人間。実はそこそこ見ているが、記憶も曖昧だし偶に録画できていなかったこともあって思い入れもない。

そんな人間が、大きな事件が起きたから流行りに乗って語り出すなんて、滑稽だと思う。

だけど捻くれている20歳の私は、普通の顔して反抗期、真っ只中。

ちょっとくらい噛みついたっていいんじゃない?(どうせ誰も読まないし)

ん?そうやって噛みついて人を傷つける行為が問題なんだって?

そんなことを言っている人は、今回の問題の趣旨を解っていないんじゃないだろうか。

 

誤解を避けるために私はよく前置きをたくさんするけれど、それは無駄ではないと考えている。

例の如くまた前置きをしておくと、「今回の問題」とか「事件」とかいう言い方は便宜上しているのであって、これらの出来事がネット上に蔓延る普遍的なテーマであること、大きな事件というだけではなくそこに至る過程があったことは重々承知の上である。

 

それからまだ「自殺」とは報道されていない中、それと断定するような発言があることはご容赦いただきたい。今回指摘したい問題の為にも、そういう前提で話を進めていく。

 

閑話休題、今回の件で目立つのは「誹謗中傷はやっぱり良くない」「今まで彼女を傷つけた人は反省しろ」「言葉は刃物だ」「某ドラマの台詞を思い出して」云々。

まあ想定内。

以前ブログでも言及したが

https://purple-fabric.hatenadiary.jp/entry/2018/10/18/090523

松本人志さんがいう「自殺をしたら擁護してもらえる風潮」というのはこれらのことだろう。

私は死者が自ら選んだ「死」というものを否定するのは嫌だと考えている。

ブログでの言及通り「逃げてもいい」と生前に示すことは大事だが、死後に「生きていなきゃ意味がない」などと否定しまくるのは如何なものかと常々思っている。

だから「自殺をしたら擁護してもらえる風潮」自体は各々が正義感のもと行なっている弔いみたいなもので、至って健全、だとは思う。

しかし前述の意見たちは、無論、木村花さんに対してではなく誹謗中傷し続けた不特定多数の人へ向けたもの。(偶に「あまりに卑劣なのでアカウント晒します」みたいなのもあるが)

 

扨、私はその何が問題だと考えているでしょう。

タイトルや「〜趣旨を解っていないんじゃないだろうか」の文から既に気付いているかもしれない。

いや、むしろそれくらい気付いてくれ。

無論、「誹謗中傷してる人を吊し上げてる人、あなたも同じことしてますよ〜」みたいな、「いや、それも誹謗中傷ですよ〜」みたいな、阿呆なやりとりをしたい訳ではない。

つまり批判的な意見を述べることについては、それが道理に合うのであれば正しいと思うのだ。

道徳的にでも、理論的にでも、説得力のある批判というのは心強い。

人間も作品も、そうやって磨かれていくものだから。

逆に言えばその行為は「磨くこと」が目的でなければならず、「傷をつけてしまう」批判は無意味な誹謗中傷ということになる。

だから、傷つけるのではなく道徳的に磨こうとする様々な声は正しい。

 

しかし、その矛先がいつだって他者であることが問題なのだと私は説きたい。

 

自分は同じようなことを別の人に対してやっていないだろうか、誰かを傷つけてはいないだろうか、そうやって自分を疑うことを何故か誰もしない。

そういう人が表に出ていないだけだったらごめんなさい。

でも、やはりそういう人は少ない気がしている。

今回の件で反省した人もいるだろうが、もしかしたら少しイラッとしただけの反省しなかった人もいるかもしれない。

「自分たちは悪くないのに、相手が死んだからって悪者にされた」

なんて、思ったかもしれない。

それは結局、その人が自分を疑うことができない人だからだと思う。

 

全く人を傷つけずに生きるなんて、無理な話だ。

生きる為に多くの人と関わる必要がある以上、その中に苦手な人・嫌いな人がいるのは当たり前で、その人を傷つけて一時的に心が落ち着くこともある。

それを全てなくすなんてことは考えていない。

でも犯人探しをする前に、みんなが自分を疑うことができれば、少しは世界が善くなるんじゃないだろうか。

私だって一瞬は、死に追い詰めた人たちが悪い、というだけで終わらせようと思った。

でも、SNSで発したことはなくても、私は一緒に暮らす家族や様々な知り合いに誰かの悪口を言ったことがあると思い直した。

基本的に道理に合っているつもり(つまりただムカつくとかではなく、行為や言動に対して抱いた疑問)だが、それを本人に聞こえないところでしている時点で間違いなくそれはその人を磨くことを目的とした行為ではない。

 

反省は、自分でするものだ。

誰かに促されてするものじゃない。

それは同時に、誰かに促すものでもないということを意味する。

木村花さんを傷つけたのは、あなたじゃないかもしれない。

でもあなたが他の場所で誰かを傷つけているとしたら、この一件を機に変えるべきは自分自身なのかもしれない。

もし誰のことも傷つけていないと思うなら、自分も予備軍だと思った方がいい。自分を疑うことができなかったなら、充分に可能性を秘めているから。

自分を疑って、責めることが出来てから、誰かに「そんなに自分を責めないで」と言ってもらうのが、正しい順番だと思うんだ。

 

 

やっぱり捻くれている。

でもまあ、善い人っていうのはそういうものだと思うから、世の中の人がみんなそうあってほしいかな。

自尊心が低いところから、どんどん励まし合って成長する感じ。

自尊心高い者同士が責め合うんじゃなくてね。

自尊心は、努力と共にだんだん高まっていくのがいいと思うよ。

 

以上、自粛解除されたけど、自分の意思で自粛しようと思ってるパープル・ファブリックでした。

 

我が人生の通奏低音

 

小さい頃に、お父さんが作ってくれた熊の置物。

お姉ちゃんのには牙があるけど私のにはない。

きっと深い意味はなかったと思う。

お姉ちゃんは男の子みたいだったから、とか。

私はまだ幼いから子グマにした、とか。

きっとそんな感じ。

なんだけど、この熊がどうも私という人間に地味に影響していたらしい。

 

優しくて純粋で、誰も傷つけない。

牙のない熊がとても誇らしかった。

幼心に自分の分身のように感じていたから、その置物が牙を持たないことが誇らしかった。

なんとなく、自分はそういう人間になっていく気がした。

自惚れすぎかな。

でも時々思うんだ。

誰に好かれなくてもいいから、いい人でいたい。

所謂、「あいついい奴なんだよ」のあいつになりたい。

結婚とか恋愛とか、自分には向いてないなって思うからこそ、誰にでも善意を向けられる人でありたいなって。

みんなが敵に見えて生きるのが怖くなった人が、一人だけでも絶対的に自分に優しくしてくれる人がいるって思ったら、救われるのかなとか考える。

自分を裏切らないと九割信じられる人が一人と、五割くらい信じられる人が三十人。

私は前者の方が安心だ。

勿論、少ないことへの代償はあるかも知れないけどね。

五割くらい信じられる、裏を返せば五割くらい疑いを捨てられない相手は、人数が増えるほど負担が大きい。

 

熊のおかげでとてもいい人になれそうな私は、完璧ないい人にはなれそうもない。

矛盾するのは、完璧ないい人に憧れれば憧れるほど、そうでない人たちを恐れてしまうこと。

 

私は未だに部活の仲間と会うときに緊張している。

出会ってたったの二年しか経っていないから、当たり前っちゃ当たり前だ。

でも、ここまで警戒心が解けないなんて悲しい現実だなと思う。

今はとても好きな人たちだけど、きっとまだ嫌いになれる。

好かれているかもしれないけど、嫌われる可能性はある。

そんな不安定な間柄。

もし私が完璧ないい人なら、無条件に彼らを愛せるのかな。

彼らがいい人じゃない可能性があっても、とことんいい人じゃなくても、愛せるのかな。

 

結局牙のない熊は分身なんかじゃなく憧れか。

或いは牙はなくても、鋭い爪で傷つけてしまうのか。

本能的に疑いや警戒心を持つのが動物の性なのか。

こんなことを考えている時点で人間らしい私なのだ。

 

さてさて、ここまで話したその熊の置物とやらは一体どんなもんか、誰も興味はないだろうけど載せてやろうじゃないの。

ほれ。

 

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子どもの頃って、大人の作ったもの描いたもの全てがすごく上手に見えて大好きだった。

今やその感動はほとんど思い出せないけど、これは今でも凄いなって思える。

作品のレベルとかじゃなくて、ずっと幼いながらに抱いた感動を覚えている。

ありがとう、お父さん。

 

 

私は私で生きていく

 

割と最近、インスタを始めた。

ほぼ見る専門のつもりだったが、これを機に人間関係の輪を広げたいとも思って少しばかり写真を上げた。

これまた最近始めた、フィルムカメラで撮った写真とかを、何の計画も無しに上げた。

いいね、が欲しいというより、コメントが欲しいな、なんて思っていた。

 

或る日、ひょんなことから同じ大学で同じ部活をやっている数人にアカウントがバレた。

まあそれ自体は大して気にしていないんだけど、そこから発展して先輩(OB)からフォローされて、何だか無駄に緊張するようになった。

 

誰かに発信するためにあるSNS

このブログだってそうなんだけど、義理でフォローするのはなんか違う。

いや、勿論知り合いにフォローされたら義理で返すんだけど。

私は一体何がしたいのかな。

 

私を見て……!

 

私を見ないで。

 

めんどくさい奴。

私も、みんなも。

 

 

今は、ストーリーとやらの使い方を覚えて、活用している。

ストーリーって、いいねとかいう機能が無いからいいね👍🏻

きっといいねを貰えたらすごく喜ぶ私だけど、本気のいいねが貰えないならいらない。

 

「偉そうに、評価なんかするな!!」

 

やっぱりめんどくさい奴なんだな。

でも仕方ないね。

これが私。

 

 

頭の中で沢山の独り言がぐるぐる回っている私。

自信がなくて家族にも友達にも自分の話を積極的にはしないけど、本当は「聞いて聞いて」って言いたいんだ。

文章を読むのも書くのも好きな私。

国語の教科書を読むのが好きになって、部活をきっかけに脚本を書くようになって、授業でレポートを書くようになって、言葉を扱う仕事に就きたいと思うようになった。

でも下手な文章は嫌いで、クラスメイトの下らない感想文なんて破り捨ててしまいたい私。

だからといって私みたいに奇を衒う人も嫌。

 

ひどいね。

でも、これでいい。

人を積極的に傷つけない限りは自由な心で生きていくと決めたから。

色々あって別居中のお父さんが、私に言った。

「全部自分の選択なんだよ。好きにやればいいんだよ。そんなつもりは全く無いけど、もしお父さんたちの期待がプレッシャーになってるんだったら、気にしなくていいんだよ。」

お父さんは、狭いアパートでお酒を飲みながら私にそう言ったんだ。

ああ、この人は薄々気付いてるんだな。

私は怖くなった。

そして馬鹿だなあとも、思った。

会いたい気持ちも、子ども扱いして欲しい気持ちもあったけど、何より私はずっと気を遣ってアパートに行っていた。

昔から人の期待に応えたいと思っていたことも、いい子でいたいと思っていたことも、だから壊れてしまったこと(これについては別の記事で言及する)も、お父さんはきっと解っていた。

好きなように生きていたら、こんなに頻繁にはアパートには来ないかもしれないことも。

暫くアパートには行っていない。

ドライブや食事には行ったけど、子どものように、一緒に住んでいるように、アパートに泊まることはもうほとんどない。

私のお父さんは長男で、音楽の道を諦めて就職した。

きっとすごく悩んだんだろうけど、後悔しているように見えたことは一度も無い。

そんなお父さんをかっこいいと思うし尊敬しているから、私は自分の好きなように生きようと思う。

何かを諦めるときも、貫き通すときも、自分の選択なんだと胸を張って言える自分でいたい。

それはとても難しいし、簡単に振り切れるほど安い人間関係でも、目をつぶって走り出せるほど軽い人生でもないけれど、誰かのせいにしたくないから。

沢山の大切な人たちを、桎梏にしたくないから。

 

私の好きな戯曲、岩松了の『青い瞳』にはこんな台詞が出てくる。

 

「私は私で生きていかせて。」

岩松了『青い瞳』2015年、ポット出版、156頁)

 

だから、私は私で生きていく。

 

 

そんなこんなで、なんだかんだ、お喋りな私は再びブログを始めることにする。

今度は成績なんかじゃなく、自分のために。

 

はじめまして、これからの私が本物のパープルファブリックです。